防災・減災への指針 一人一話

2013年12月02日
震災を振り返る―教員職として、市外在住者として―
宮城県貞山高等学校
中本 潔志さん
宮城県貞山高等学校
赤坂 佳子さん
宮城県貞山高等学校
阿部 浩二さん

発災時に役立った経験と知識

(聞き手)
 東日本大震災発災前には、どのような防災対策をしていらっしゃいましたか。

(中本様)
 本校では年に2回、防災避難訓練として生徒全員を避難場所に誘導し、どのくらい時間が掛かるのか、避難状況を観察してどのような問題点があるのか、どのような点に気を付ければ良いのか話す機会を半年に1回のペースで設けています。毎年6月に地震と津波を想定した防災避難訓練を行っており、それは震災以前から毎年行っていました。ですが大きな地震はもう何十年もなかったので、言葉が適切ではないですが、形通りに訓練を行っていたということで、それに対する真剣味がどれほどあったのかは何とも言えません。また、校内に備蓄はほとんど何もありませんでした。

(聞き手)
 他の災害の経験についてのお話をお聞かせください。

(中本様)
 昭和53年の宮城県沖地震の時には仙台に居ました。今回の東日本大震災は宮城県沖地震に匹敵するか、あるいはそれを上回るであろうことは揺れた時にわかりました。役立った経験は、どのくらいの期間が経てばライフラインが復旧するか見通しが立てられたことでした。
震災当日は学校に居りまして、多賀城市から仙台の自宅に帰ろうと思いました。その時、宮城県沖地震の時もすぐに電車が止まり、それ以降何週間か電車が不通だったことが記憶として残っていましたので、とにかく帰りの足を確保しなければいけないと考えていました。幸い、私は学校に原付バイクを置いていましたので、それで帰宅することが出来ました。今回のようにガソリンが不足することは予測出来ませんでしたが、電気は比較的早く復旧するであろうことや、都市ガスは復旧に時間が掛かるだろうと予想できました。また、食糧も手に入りにくいだろうと予測できましたので、それを念頭に置いて行動することができました。

(聞き手)
 宮城県沖地震の経験が、今回の震災でも、ある程度予想として役立ったということでしょうか。

(中本様)
 そうですね。私は阪神・淡路大震災の時にボランティアで神戸に行った事があります。向こうは津波こそ来ませんでしたが、代わりに家屋の倒壊が非常に酷い状態でした。その観点から考えると、今回は津波で大きな被害が出ましたが、地震そのものの揺れで家屋が倒壊し、下敷きになって亡くなられた方については、多くありませんでした。直下型の地震とプレート型の地震について言えば、神戸ほどの揺れはこちらにはなかったということです。
津波に関して言えば、テレビの映像でスマトラでの津波を見たことがありまして、津波が海岸線からどのくらい内陸まで連続的に入り込んで来るのかという映像を、画面を通して見ていました。本校は海岸線から比較的内陸に入った場所にあるので、一般的には「ここまでは来ないだろう。」と思われる地域でしたが、私は揺れを感じた時に「ひょっとしたらここまで来るかもしれない。」と感じました。恐らく国道45号までは来る可能性があると思ったので、自宅に帰る時は45号を経由せず、内陸側にある仙台市岩切方面から帰宅しました。同僚の中には、45号を通って帰宅された方がいらして、車の中に水が入って、車が使えなくなったのはもちろん、命からがら助かった先生も何人かいらっしゃいましたので、ある程度そういう意識を持っていたことが、自分の身を守るのに役に立ちました。

(聞き手)
 今回はかなり大きな揺れでしたが、その時点で津波が発生するという予感はありましたか。

(中本様)
 揺れてすぐにそう思いました。少なくとも、私がこれまで経験してきた中で、これほどの揺れはありませんでしたし、揺れの時間が長かったので、津波が来るのではないかという脅威はありました。しかし、神戸の時に建物が倒壊している光景が頭に残っているので、とりあえず、揺れで建物が倒壊しなければいいと思っていました。2~3分の時間が経って揺れが収まってきた時に、窓ガラスにひびが入ったりはしましたが、建物は倒れておらず安心しました。次に思った事が津波ですね。ここは海岸線から比較的近い場所にあるので、津波が来るかもしれないと思っていました。

(聞き手)
赤坂先生は貞山高校に来て1年目で震災に遭ったということですが、それ以前に多賀城市との関わりはありましたか。

(赤坂様)
あまりありませんでした。私は実家が気仙沼なので、地震が起きたら津波が来るということが念頭にありました。それと、唐桑に津波記念館がありまして、そこで津波が起こったらすぐに逃げるという映像を見ていました。しかし、ここまで被害が酷くなるイメージはありませんでした。震災時の映像で、気仙沼に津波が来ている様子を見ていたのですが、多賀城市まで津波が来るというイメージには繋がりませんでした。
その後、私は学校から外に出てみたのですが、すぐ隣にある多賀城消防署の方たちも冷静な状態で、特にサイレンを鳴らしている訳でもなく、ごく普通に国道45号を車で走っていくところを見ました。他の人たちも同じ気持ちだったと思います。しかし、途中で渋滞が始まり、前方から津波が来たとわかって非常に驚きました。

(聞き手)
 揺れがかなり大きかったので、やはり津波が来ると予想していたのでしょうか。

(赤坂様)
予測はしていました。それに、映像を見て、気仙沼に津波が来ている事はわかっていました。それと同時に、自分がいる所には現時点でどこまで津波が来るのだろうと考えていました。実家のある気仙沼湾の近くに勤めていた叔父と叔母は、過去の地震で、津波がここまで来てこれだけの被害を残したという石碑を見ていたこともあり、すぐ高台に逃げたと聞きました。しかし、多賀城では、津波が起こった時の避難区域の認識だとか、津波が起きた時に国道45号は危ない箇所だという意識が全くありませんでした。ですから、それが非常に残念に思います。

(聞き手)
 赤坂先生は、今回の地震以外に何か大きな災害を経験された事はありますか。また、東日本大震災発生前の準備や対策などについて、お聞かせください。

(赤坂様)
 宮城県沖地震の頃、私はまだ中学校1 年生くらいでした。家には何日か分の水や食糧を、ある程度意識して置いていたと思います。あとは、家具の転倒防止程度をしていた程度で、中本先生のようにライフラインの復旧に関する予想をしていた訳ではありません。
電気が1週間くらい、バスは1カ月くらい止まるだろうくらいは考えていました。ですが、交通機関がこれほど酷い状態になるとは思っていませんでした。

想定していなかった大津波

(聞き手)
 校内での防災対策や防災意識は、赤坂先生から見てどうでしょうか。

(赤坂様)
 今回の震災が起こった日はちょうど、3月の入試期間で本校には生徒がいませんでした。備蓄している食料などもなかったので、まだ助かりました。隣近所の学校では生徒がいるところも多かったので、もしこれで生徒がいたら帰れない生徒も出て、何泊もさせることになり大変だっただろうと思います。
震災後には毛布や食糧、水をストックするようになりました。

(聞き手)
 東日本大震災の備えや対策についてですが、校内での避難訓練の実施状況をお聞かせください。

(阿部様)
 本校に限らず、避難訓練では、地震による火災というものを想定しています。校舎は鉄筋コンクリート造りですから、倒壊はあまり考えられません。ですから、今の高校生避難訓練緊張感をあまり感じられない世代なのかと思います。私は高校3年生だった頃に宮城県沖地震を経験していますので、あの揺れを未だに覚えています。
それと、この地区では1986年の8.5水害では近隣地区が完全に水没する経験をしています。その後にも学校前の国道45号が2回ほど冠水しているので、ここは水害に弱い地区だと思っていました。
一方で、被害想定が、地震による火災となると、火事には比較的強い施設だということもあり、生徒たちもあまり真剣に捉えることは難しいのか、危機感は薄いと思っていました。

(聞き手)
 発災直後の出来事で印象に残っている事があれば教えていただけますか。

(赤坂様)
 私はその時、校舎の1階で作業をしていました。かなり横揺れが激しく、まるで台車の上に乗って揺らされているようで、立っている事ができませんでした。一緒に作業していた先生方も、頭を押さえるような姿勢でしゃがんでいました。

(聞き手)
先生方を含めて、何人くらいの方が校内にいらっしゃったのでしょうか。

(赤坂様)
 教員はほとんど出勤していたと思います。私は入試試験の準備作業をしていました。職員室にはほとんどの先生がいらして、本棚が落ちたり、マグカップが倒れたり、テレビが転がっているという状態でした。

(聞き手)
阿部先生の印象に残っている出来事についてお聞かせください。

(阿部様)
 地震の揺れは3分続きました。それから、大きな揺れが3回あったような気がします。あの時初めて、携帯電話の緊急地震速報を聞き、とても驚きました。私は1983年の日本海中部地震を経験していまして、その時は1分以上の長い揺れだったのですが、今回は、それを越える、今までにない長さの揺れでした。
その時、間違いなく津波が来ると私は直感しました。
それから、職員一同が集まり、ワンセグで映像を見ていました。すると、仙台港に16時頃、10メートルの津波が来ると報道されていたので、冠水した経験から、少しでも浸水から逃れようと、車を少し高い位置にあるグラウンドに移動させました。
 先ほど、中本先生がスマトラの話をされていましたが、私は津波が押し寄せるということを全く想像できませんでした。津波は、ただ、じわじわと水が上がってくるのかと思っていました。しかし、実際は全く違いました。気仙沼の津波の映像を見ましたが、その威力にただ呆然とするだけでした。

浸水高を示す目印の必要性

(聞き手)
 発災直後の行動について、あらためてお話しください。

(赤坂様)
 私は車で帰ろうとして、津波で流されてしまいました。その日は近くのアパートの方に泊めていただきました。次の日、3時間くらいかけて歩いて帰りました。気仙沼などに津波が来ている映像をワンセグで見ていましたが、多賀城にどのような形で津波が来るのかイメージがつきませんでした。今も同じルートを通勤で使っていますが、ここまで浸水しましたというラインを時々見かけます。ここに津波がこのくらいの高さまで来たと分かるので、こういう目印があるとわかりやすくていいと思いますが、復興したら見えなくなってしまうかもしれないのは、心配です。
過去の津波被害は聞いていますが、実際には知識がないと、災害に備えられないという部分があります。自宅にようやくたどり着いてから、ある程度の食糧や水は確保していたので、そこはどうにかしのげました。
その後、教頭先生から連絡があり、生徒の安否確認が出来ないと言われたので非常に心配になりました。確認するにも、生徒の住所や携帯番号が載っている名簿は全て職場に置いていたので、自転車で学校まで行きました。それから、一人ひとりの生存を一生懸命に確認しました。あの時は、皆が無事なのかと非常に不安でした。

(聞き手)
赤坂先生が担当されている生徒さんの安否が全員確認出来るまで、どのくらい掛かりましたか。

(赤坂様)
 2週間以上掛かったと思います。最初は、本人に電話での連絡がつかなかったのでメールで無事を確認したり、伝言があったりで、最後の1人まで確認するのに、だいぶ時間を費やしたと思います。ですが、電気が通じるようになると、電話での確認のやり取りがとてもスムーズに進みました。

ガソリン不足による行動の制約

(聞き手)
 震災直後の情報収集の状況について教えてください。

(阿部様)
 教員は仙台在住が多く、私のように地元に住んでいる人は少ないのです。ガソリンの問題もあったので、全員が毎日出勤することは出来ませんでした。ラジオからの情報で印象に残っているのは、荒浜で200人の遺体が上がったということでしたが、バッテリー切れなどで、その
後の情報が全くありませんでした。
 各地の被害情報を収集することに大変苦労しました。そうした中、生徒の安否確認のため、もしかしたら、塩釜市の体育館で情報がわかるかもしれないと考えて行くことにしました。体育館は真っ暗な中、数人の方が毛布にくるまっている状況で、そこでも情報を入手する事は出来ませんでした。2日後に七ヶ浜町に行きましたが、その時の惨状は酷いものでした。水は既に引いていましたが、車が街路樹に立てかけてあるなどで、まるで映画の中にいるようでした。
 3日後の月曜日以降、学級担任の先生方はメールなどを使って連絡を取り、私は生徒部の先生と2人で自転車を使って避難所を回り、安否確認をしていました。それから、車を借りて七ヶ浜町に行き、掲示板に貼り出されていた名簿を見せて頂いて、生徒の情報を集めました。緊急車両としてガソリンを入れてもらった車があったので、それで東松島まで出向いて安否確認もしました。最初の1週間は、3分の1くらいの先生しか来ることが出来ず、多くの先生方は車が使えないので自転車で通勤していました。

(聞き手)
 多賀城市の今後の復旧・復興に向けて、必要だと考えていることはありますか。

(赤坂様)
 通勤する時に見ている程度ですが、日に日に明るく変わってきていると感じています。先ほど申し上げましたが、ここまで震災の時に津波が来たというようなものは、折に触れて見られる場所にあると良いと思います。大きな建物に行って見るよりも、実際に津波が来た場所にそのような目印があると、逃げる時の目安になります。
 震災で2階まで浸水していたビルが、新しく綺麗に変わってしまうと、ここまで津波が来たことには誰も気づかないだろうなというのは非常に残念に思います。

同じ体験が人との絆をつくる

(聞き手)
 今回の震災を通じて得た教訓や、後世に伝えておきたい事はありますか。

(赤坂様)
日常的に備えておく習慣を持たないといけないと思います。
私は当時、徒歩で帰宅したので、備えとして、その後、ヒールの高い靴はなるべく履かないようにしました。後は、職場に長靴を常備する、すぐに逃げられる靴を車に積んでおくといった話を聞いたので、そういうことも大事だろうと思います。非常食や水を常にストックしておくということは、何度もテレビで放送されているにも関わらず、足りない部分がたくさんありましたので、このようなことを習慣にして、常に心掛けておく必要があると感じました。

(阿部様)
 私は、実は、備蓄や水の準備などは全くしていません。何もしなくてもどうにかなるという気持ちが強いのです。それよりも、どう動けるかが重要ではないでしょうか。給水に行った時に、多くの人が500ccのペットボトルを持ってきていましたが、それでは非常に効率が悪いです。他の人がそれに対して何も対応出来ていなかったので、私はバケツを借りてきて効率的に給水を行いました。そういう対応が出来る準備さえしておけば物がなくてもどうにか乗り越えられると思うので、常に何をすれば効率よく動けるのか判断するのが一番重要だろうと思います。
それから、今回の津波に関しては、逃げずに助からなかった方が多くいます。東日本大震災の約1年前のチリ地震津波の時、荒浜地区では逃げた割合が3割程度に留まったという話がありましたが、今回もその轍を踏んでしまう結果となりました。やはり、人間は自然に逆らってはいけないし、大丈夫だなんて思わない方が良いということを強く感じました。
 良い面で言えば、です。普段は喋らない人が相手でも、給水所や店の情報をやり取りする機会が多かったようです。同じ体験をすることにより繋がるのだと強く感じました。それから、海外の報道でも紹介されたように、整然と列に並んで暴動など起きなかったということや、ボランティア活動が活発に行われていたことも良かったと思いますが、その一方で、自分さえよければ構わないというような行動も見られました。石巻地区などでは、犯罪行為の話を多く聞きました。人間は一人で生きられるものではなく誰かの支えにより生かしてもらっている存在です。ですから、人のために動くことが本当ではないでしょうか。

(聞き手)
赤坂様は震災当日、知らない方のアパートに避難させてもらったとのことですが、それについてお聞かせください。

(赤坂様)
 寒かったので、お願いをして自宅に入れていただきました。他にも10人ほどの方がそこに避難されていました。小学生の子どもとお父さんが車の上に乗って流されているところを、自衛隊の方が一生懸命に泳いで助けている様子を目撃したりしました。
私は津波に遭ってしまいましたが、高台に逃げた方や、津波に遭わないルートを通られた方もいますので、津波の時の避難方法、ルートを話し合っておけばよかったと思います。多賀城市で起こったことを身近なところで理解できる標示など、皆さんで共有出来るものなどがもっとあればいいと思います。

学校へのソーラーシステムの設置

(聞き手)
 その他で、伝えておきたいことがあればお願いします。

(阿部様)
 今までは近所付き合いがありませんでしたが、こういう非常時になると、皆さんで交流を持ちいろいろな情報の交換をすることができました。日頃のコミュニケーションがとても重要だと思いますので、大切な教訓としていきたいと思います。
現代では電気やインターネットがないとうまく回らない面もありますが、そういった環境を使わない方もいるので、情報拠点を複数持ち、アナログ的な発信も出来るようにするべきだと思います。
多賀城市は自転車でも全て回れる範囲にあるので、情報を提供する場を少し考える必要もあると思います。
 それから、学校の屋根は基本的にフラットなので、ソーラーシステムを導入してはどうかと思います。設備だってメンテナンスだって、一般家庭よりははるかに楽だと思います。そうした小さな努力から震災対策に取り組む必要があると思いますが、なかなか進まないのが現状です。